―― 日本企業だけが「総合職」という名の下、全員にエリートであると思わせていることが、一番の問題だということですか。
その通りです。このような状況が続いているから、環境の変化に適切に対応していくことができないのです。大卒者の場合、全員をエリートとして入社させるので、その人たち全員を課長にしなくてはなりません。事実、少し前まで大卒男子に限って言えば、8~9割が課長になることができました。ところが、課長になると管理業務がメーンであまり現場では働かなくなり、営業や実務からは遠ざかっていきます。実務ができないのに給料が高いままなので、「定年制」が必要となります。
欧州の定年は65歳ですが、ドイツのように定年制が存在しない国もあります。アメリカも定年制があるのは一定以上の、給料がものすごく高い人たちだけです。ノンエリートで、現場で営業をやったり、専門的な仕事をしたりしている人は65歳になっても、大きく能力が衰えるわけではありませんから、定年という考え方がないのです。それに対して日本企業では、増えすぎた幹部たちの給料が高いため、辞めてもらわなくてはならない。さらに言えば、日本企業は幹部以外の多くが非正規社員という、いびつな構造になっています。
本当は35歳くらいになった時には、幹部候補の中でも実力的に相当な差が付いていて、一軍と二軍ができているのです。それにもかかわらず、二軍の人たちを課長に昇進させるというやり方は、いい加減に止めなくてはいけません。何より、会社の体力が持たないでしょう。
「楽」。
あなたはこの漢字を、どう読みますでしょうか。
実はこの漢字。
読み方が、「一通り」しかないのです…。
今夜はそんな話です。
◆ 作業量と喜びの関係は。
実は南カリフォルニア大学の心理学者であるベルテンは、被験者たちに作業を行ってもらい、作業の量と、気分の関係を調べました。
すると。
1分あたりの作業量が多いグループは、少ないグループに比べて、楽しい気分でいることが多くなりました。
逆に少ないグループは、気分がどんどん暗くなってしまうことが分かったのです。
すなわち人間、「色々と多くの作業をやっている方が、気持ちがアップしてくる」ということなのです。
そういえば、かの「相田みつを」さんの言葉に、こんなのがありました。
「なんでもいいからさ
本気でやってごらん
本気でやればたのしいから
本気でやれば つかれないから
つかれてもつかれが さわやかだから」
最初に読んだとき、
「つかれないって言ったのに、つかれるの!?」
とか思ったのですが、それでも言っていることは真実な気がします。
何かに夢中になるほど一生懸命にやる。
そうすれば、気持ちはかえって高まっていきます。
「いやいや、俺は仕事が忙しくて大変なんだ!
それで気持ちが落ちてるんだってば!」
という人もいるかもしれません。
しかしそういう人は、それこそ「イヤイヤ」やっていて、その結果、無意識にその仕事から、気持ちを引いていませんでしょうか。
それにより、作業の能率も落ちている可能性だってあります。
そのため全力でその仕事を楽しんで立ち向かっている人に比べて、気持ちが落ちてしまうわけです。
色々なものをパパパッと片付ければ、「お、自分、できるんじゃない?」という自信が湧いてきます。それが結局、活力につながってくるわけです。
実際、大企業の社長や、起業家などは、毎日大変な仕事を抱えています。
売れっ子アイドルだって同じです。
しかし不思議と、彼らはイキイキとしています。
逆に、毎日特にやることもなく、パチンコで朝から座っている人…。
彼らはヒマではありますが、楽しそうかというと、そうではありませんよね。
とにかく色々なものに立ち向かい、全力でこなしている…。
それによって、かえって気持ちは高まっていくわけです。
◆ 何もしないと…。
実際、ゆうメンタルクリニックに来る方の中には、仕事や職場の人間関係でストレスを抱えて、休職される人も多かったりします。
もちろん休むことは大切で、非常に意味があることです。
しかしだからといって、ただ漠然と家で休んでいるだけでは、今の理論から、かえって気持ちは落ちていってしまいます。
そのため、
・一日に一回は外出すること
・好きな本を読んだり、人に接したりすること
・趣味を見つけてみること
などをアドバイスしています。
「何もしない」より、とにかく何でもいいので、楽しめるものを見つける方が、ずっと気持ちは高まっていくわけです。
人間、時間が余るほど、必ずしも精神衛生状態が良くなるわけではないのです。
◆ プラスαを、してみよう。
もちろんそれでも「今の仕事が楽しくない! それが大変でイヤだ! でも生活のために休むこともやめることもできない…」という人もいるでしょう。
そういう人は、それこそ「副業」を勧めます。
たとえば作家になりたいなら、ネットで発表してみる。
何かを書いて、出版社に持ち込んでみる。
新しい仕事を考えているのなら、そのための勉強をしてみる…。
何でも構いません。
もちろん、今より「忙しく」なることでしょう。
しかし不思議と、今までよりイキイキしてる自分に気づくのではないでしょうか。
人間、やりたいことであるなら、楽しみが増してくるものです。
◆ リタイヤ、したいですか?
よく「お金をためて引退したい!」「早くリタイヤして、何もしないで得られる収入だけで生きていきたい!」という人がいます。
でもですね。
それ、退屈ですよ?
何の楽しみもありませんよ?
「いやいや、自分はそうなってから、楽しい趣味を見つけるんだ」
というのなら、いやそれ、仕事と並行して、今すぐすればいいだけでは、と思います。
何でリタイヤしないとできない、と思っているのか分かりません。
いずれにしても、「時間さえあれば幸せだ」「何もやることがなくなれば楽しい」と思うのは、間違いなのです。
◆ 「楽」の読み方は。
そう。
「楽」という漢字は、「ラク」とも読みますし「たの(しい)」とも読みます。
そして、決して同時に読むことはできないのです。
あなたが「ラク」に感じているのなら、それは決して「楽しみ」ではありません。
また「楽しい」と感じているなら、決してそれは「ラク」ではないでしょう。
人は、大変に感じ、一生懸命やるからこそ、楽しみを感じることができるのです。
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● 今回のまとめ。
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○ ラクに、楽しみはない。楽しみは、ラクではない。
「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。
壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」
そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。
そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。
教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
学生は声を揃えて、「いや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、 いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」
「それは違う」と教授は言った。
「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、
大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」
君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。
それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり・自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。
もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、
君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう
まず、当事者意識が完全に欠如している。さらに、独り立ちをしようとせず、常に何かに依存し、
消費し、批判するだけの「お客さま」でいつづけようとしている。これはゆゆしき事態であり、
日本社会のありかたにかかわる重大な問題である。
最近の若者は、定職に就きたがらない。
あるいは、会社に入っても一定のポジションで身を立てようとしない。
なぜなら、社会的なかかわりを、全て暫定的・一時的なものと見なしているからだ。
彼らに言わせると、本当の自分は別のところにあり、現実の自分は仮の姿に過ぎないんだそうだ。
本当の自分は棚上げしておいて、いつまでも立場を替え、考えを変え、
自分自身をも変身させる余地を残しておく。一貫した主義主張をもたないか、もたないふりをする。
特定の党派、集団に全てを賭けることを避けようとする。
↑これ1977年に書かれた論評な 1997年じゃないぞ 今から30年以上前の文章だ
◆なにかを考えるための10カ条
ひとつのことを考えるとき、
1.そのことの隣りになにがあるか?
2.そのことのうしろ(過去)になにがあったか?
3.そのことの逆になにがあるか?
4.そのことの向かい側になにがあるか?
5.そのことの周囲になにがあるか?
6.そのことの裏になにがあるか?
7.それを発表したら、どういう声が聞こえてくるか?
8.そのことでなにか冗談は言えるか?
9.その敵はなにか?
10.要するに、それはなにか?
そんな中で、漫画家のとり・みきが「一杯のかけそば」を読んだ時の文章を引用しよう。
泣かなかった。 だが、泣く人の気持ちはわかるような気がした。別に泣いたっていいじゃないか、とも思った。問題はその先だ。多くの人が「ああ、自分は泣いてしまった。不覚ではあるが事実は事実だ。ここは厳粛にこの事実を受け入れ、この作品を評価せずばなるまい」と思い込んでいるようなのだ。これが私にはよくわからない。皆あまりに自分の生理現象を信頼しすぎているのではないか。人は梅干しの写真を見れば唾液が出てきてしまうのだ。 私などそりゃもう恥ずかしいぐらいによく泣く。このあいだは、タイトルも知らない単発ドラマを、終了5分前から観始めて泣いた。登場人物の人間関係も、そこまでのストーリーすらまったくわからないのに、ある年配の役者が発したセリフのひと言に感じ入って涙が出てしまったのだ。これにはさすがの私もあきれ、そして理解した。 人が涙を流すのは必ずしも作品の出来とは関係がないのだ、と。 かつて自分が何かに感動した時にできた涙腺回路のようなものが頭の中にはあって、そこにピタリとはまるような場面だの言葉だのを見聞きしてしまうと、涙というのはどうやら自然に流れる仕組みになっているらしいのである。歳をとると涙もろくなるというのは、つまりそういう回路のパターンが増えているからではないか。かくして私はモスクワ同様、涙を信じない。

